日本の風習

こちらのページでは、日本の風習についてご紹介しております。
1月(睦月)編 ![]()
暦の始まり
今は西暦が採用されて ヨーロッパの新年が使われています。昔はというと、初めて暦が
作られたのが推古天皇の604年、百済を通じて伝わった中国の元嘉暦が採用されたのが始まり。それ以降江戸時代まで、中国の暦を だいたいそのまま使っていたので、中国と同じ太陰太陽暦で立春年初なのです。
つまり日本ではずうっと、 立春を含む月、あるいは立春の近くの新月の日が年初だったのです。
◆日本で使われていた暦
・弥生時代〜604年以前--不明だが、日本書紀の記録が歴史的事実になって
くる5世紀以降は元嘉暦と考えられます。日本書紀の暦日も元嘉暦で計算したと考えると、事実とかみ合います。
・604〜679年--元嘉暦
・679頃〜763年--儀鳳暦
・764〜862年--大汀暦
・862〜1684年--宣明暦
・1685〜1842年--貞享暦
・1843〜1867年--天保暦
・1872年〜グレゴリオ暦
初詣
初詣は文字通り、新年に初めて神社にお詣りすることで、本来は三が日のうちにするのが原則ですが、最近では松飾りを取り除くまでの期間(東京方面では7日、京都方面では15日)にお詣りすればよいとされています。
しめ飾り
しめ飾りとはしめ縄で作ったお飾りのことで、神をまつる神聖な場所であることを示すものとして飾られます。
新しいわらには、古い年の不浄を払い、うらじろは長寿、だいだいは家系繁栄などの意味をもつ縁起物が飾られました。
門松
正月に、それぞれ門に立てる松は、年神様が訪れ、一年の幸福を授けてくれるといわれ、神様が最初に降りてくるのが、門松とされてきました。
古式では、松飾りは12月13日までに行いました。最近は12月29日か30日までにすればよいとされています。大晦日31日に飾るのは、「一夜飾り」といい神を迎えるものを一夜で飾ると誠意に欠けるということから嫌われました。ただ、29日も「苦の日」,「二重苦」,「苦立て」などと解釈して、28日か30日に飾られるところが多いようです。
書初
試筆、吉書(きっしょ)、筆初め、初硯(はつすずり)ともいうこの書初は、新年になって、書や絵を1月2日に行います。
宮中で「吉書初め」を2日に行うこの行事は、平安時代から行われているそうです。庶民のあいだに広まったのは、江戸時代に入ってからで、若水をくんで墨をすり、菅原道真(書の神様とされてている)の画像を飾って、恵方(吉の方向)に向かって書きました。現在と違い当時はおめでたい詩歌を書くことになっていました。
七草
1月7日は、七草の粥を祝う日です。この春の七草の種類はふつう、セリ、ナズナ、ゴギョウ(母子草)、ハコベラ、ホトケノザ(土器菜)、スズナ、スズシロ(大根)、をさします。
この行事の起源は古く中国では、元日の邪気を払うことに始まったとされています。我が国でも平安時代に宮中で、「若菜粥」を祝った記録が残されています。この七草粥の中に入れる野草にはいずれも、消化を助ける作用や血圧を下げる作用があるものです。このような食物を摂ることで、冬のビタミンの供給や正月のあいだ、食べ過ぎてしまった胃腸などの疲れを癒すばかりか、一年を通じて病気にかからないようにという祈りも、そこはかとなくこめられているようです。
鏡餅
鏡餅の由来にはさまざまな説があります。武士の家で、鎧の前に飾った鎧餅、鏡の前に飾った鏡餅、太古の鏡が丸い形をしていたことから等々、しかしいずれの説も「お供え」というものであったということは間違いないでしょう。
飾り方については地方や家風によって異なりますが、一般的には三方(さんぽう)の上に奉書紙(ほうしょがみ)か半紙を四方にたらして敷き、その上にゆずり葉やうらじろを左右に置き、鏡餅をそなえます。鏡餅とうらじろの間に昆布を敷き前に垂らしたり、餅とだいだいの間から垂らす方法など様々です。そのほか、伊勢エビ、串柿などをのせます。周りには、かち栗、ごまめ、ひいらぎの葉などの縁起物をのせたりしますが、各地方や家庭によって、どれが正しいということはありません。
羽子板
羽子板は昔、胡鬼板(コキイタ)とも言われていました、羽子、胡鬼とはトンボの事を指します。羽子の名称は、見ためどうり、羽の大きさからきていますが、胡鬼と言う呼び名は中国から来ています、その由来は秋の収穫期に、中国の北方から、万里の長城を越えて収穫物を奪いに来る、騎馬民族、胡族(チンギスハーンに代表される蒙古族、現在のモンゴル民族ではないかと思われる)を、「胡の国の鬼」と恐れ、同じ時期大量に発生してくるトンボの事を、胡の国の鬼と一緒に来る虫「胡鬼の子虫」と呼ぶようになりました。
昔から言われている、「天高く馬肥える秋」の意味は、「天、高く済みて、馬(万里の長城を)越え来る秋」の意味とも言われ、秋の胡族襲来を警戒、注意する標語のようなものではないかと言われています。日本の古名はアキツアカネ(赤トンボの事)の国、と呼ばれるほどトンボの多い、農耕民族の国です。
羽子板は宮中行事である左義長(三毬打▽サギチョウ)節句の左義長板の縁起に因み、装飾品、羽根突きの遊戯道具としてだけでなく、縁起物としても広まりました。左義長節句とは年末の、空中大掃除の時使った、煤払いの笹竹や、その時に出た煤と麈の一部、神棚の古い御札、書き初め、左長義板(羽子板の形をした板に、宮中の様子や人形を描き、厄払いの形式としたもの)、毬打遊戯(ギッチョウユウギ▽現在の、ホッケー、ゲートボウル、を合わせた様な、儀式的な遊び)に使った道具(ゲートボウルのクラブの様な形をした杖)、正月の飾り物等を、年末年始に神の依代(ヨリシロ▽門松と同じ)として使った笹竹を、三本の毬杖で支えた物と共に、年頭の厄払いとして、正月一五日に、燃やす儀式です。(俗称▽どんと焼き)
羽根突きは昔、汚れ落としの洗剤として使われていた、無患子(ムクロジ)の実の種に鳥の羽を付けたものをトンボに見立て、疾病の元である、カ、ハエ、等を、脅し追い払う意味を持ち、羽根突きをする事が厄払いであると言われています。
羽子板の絵は宮中の左長義板には、極彩色の泥絵の具、又は金銀の蒔絵で描き、一般庶民の羽子板は、始めの頃は直接、板に墨で描き、色紙を切って貼る、布切れを貼る、厚紙に布切れを巻いて貼る、さらに綿を含ませボリュームを付ける、等々変化をしてきました。この綿を含ませる、と言う技法が現在の押絵細工の始めです。絵柄は、花鳥、女性風俗、宝船、七福神、等の絵が主体でしたが、歌舞伎役者の舞台姿を似顔絵で描き、現在の、ブロマイドの様な人気を得ました。この江戸歌舞伎舞踊を題材にした、押絵羽子板は単に歌舞伎舞踊を押絵にしたと言うだけでなく、絵柄自体に、江戸っ子独自の、思い入れとユウモアーとウエットを含む意味を、持たせています。
また、押絵羽子板の絵柄一つ一つに、意味合いを持たせ、それぞれの生活と夢、希望の指標と託し、又、これを出産、新築、開店、等その他のお祝いとして賜り、相手先の平安と、良き縁の起こりを願いました。
羽子板市は、元禄時代から正月のお飾りや道具などを売る年の市として、破魔矢、破魔弓と共に売られていた押絵羽子板が、その人気の高さにより、押絵羽子板中心の市となった事が始まりと言われています。毎年 十二月 一七日 一八日 一九日の三日間、浅草の観音様の境内で開かれる、羽子板市は、問屋 小売店 製造元の三者が揃い、それぞれの特徴有る押絵羽子板を販売します。
大寒
1月5、6日の小寒(しょうかん)で寒の入りとなり、小寒の15日後が大寒(1月20日か21日)、そして立春の前日の寒の明けまで、約1ヶ月を寒の内といいます。
小寒や大寒なのは中国から伝わった「24節気」の一つでそれぞれ紹介していきましょう。24節気とは、太陽の黄道上の一によって一年を24に分割して節気を配しました。季節の移り変わりうまく言い表したこの節気は、暦上という前提にともなって現在でも一部の節気については親しまれています。
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